哲学者図鑑
情・変・己・今
衝動の開拓者

説明は後でいい。まず飛ぶ

与謝野晶子の似顔絵

与謝野晶子

1878年〜1942年(日本) / 触れないまま、説くな

「やわ肌の、あつい血潮に触れてもみないで、さびしくないのですか。道を説くあなたは」

— 『みだれ髪』臙脂紫の章

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

整えてから行くつもりは、あったのだと思う。ただ、整うまで待たなかった。二十二歳で堺の家を出て東京へ行き、その年の八月に出した第一歌集を、彼女は『みだれ髪』と名づけている。
意匠:帯に、新しい櫛を一枚さしている。歯のあいだに髪が一本もからんでいない、まだ一度も使われていない櫛

あなたへ

やると決めたことを、まだ誰にも言えずにいませんか。言えば説明を求められます。なぜそれをするのか、見通しはあるのか、周りはどうなるのか。いま答えられる気がしないので、答えられるようになるまで待っている。与謝野晶子は、その順番が逆だった人です。二十二歳で堺の家を出て東京へ行き、その年の八月に第一歌集を出しました。三年後には、戦地にいる弟に宛てた詩を発表して、たいそう危険な思想だと名指しされています。そのときの返事も、理屈ではありませんでした。これは私が本当に感じたことだ、ほかの歌いかたを知らない、と書いただけです。説明は、動いたあとから追いついてきました。

この人はこう考えた

与謝野晶子は1878年、堺の和菓子屋の三女として生まれました。九つのころから『源氏物語』や『栄花物語』ばかり読んでいたと、後年の文章で本人が書いています。二十二歳で家を出て東京へ行き、その年の1901年8月に第一歌集『みだれ髪』を出しました。三百九十九首。体と、欲望と、相手への呼びかけを、そのまま歌にした本です。同じ年に与謝野鉄幹と結婚しました。1904年、旅順にいる弟に宛てて「君死にたまふことなかれ」を発表すると、危険な思想だと批判されます。彼女は思想の正しさを論じ返さず、歌はまことの心を歌うものだ、と答えました。十二人の子を育てながら、短歌と評論と『源氏物語』の現代語訳を書き続け、1921年には新しい学校の創立にも加わっています。1942年、六十三歳で亡くなりました。

こういうときは、この言葉

正しいことばかり言う人に囲まれて、息が詰まるとき

「やわ肌の、あつい血潮に触れてもみないで、さびしくないのですか。道を説くあなたは」

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

— 『みだれ髪』臙脂紫の章

論破していない。さびしくないのか、と聞いているだけである。正しさで人を動かそうとする相手に、彼女は一度も正しさで応じていない。

決めたのに、まだ動き出せずにいるとき

「狂おしい子であるこの私に、炎の翅が軽い。百三十里、あわただしい旅」

狂ひの子われに焔の翅かろき百三十里あわただしの旅

— 『みだれ髪』臙脂紫の章

百三十里は堺と東京のあいだの道のり。三年後の文章でも、彼女は郷里へ帰る距離をこの数字で書いている。翅が「重い」ではなく「軽い」。重さを量る前に、もう飛んでいる。

「いつか落ち着いたら」と、先へ送りつづけているとき

「春は短い。何を不滅の命と言うのかと、力のあるこの乳を、その手に探らせた」

春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ

— 『みだれ髪』春思の章

永遠の話をされて、彼女は自分の体を差し出して答えている。いつかに賭けない、という宣言。順番を決めているのであって、刹那に生きろと言っているのではない。

自分の感じたことを、うまく説明できずにいるとき

「歌は歌です。歌を習う以上は、後の人に笑われない、まことの心を歌っておきたい。まことの心を歌わない歌に、何の値打ちがありましょう」

歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。

— 『ひらきぶみ』(1904年)

「君死にたまふことなかれ」を危険思想だと批判されたときの返事である。思想の正しさを論じ返していない。自分が本当に感じたことを書いた、それ以外の書きかたを知らない、とだけ答えている。

親や周りの期待に、沿うべきか迷うとき

「親が愛してくれるよりも、幾倍か自分を愛し重んじることを心得ているのが、今の私たち婦人です」

親が愛してくれるよりも幾倍か自分を愛重する事を心得ているのが今の我我婦人です

— 『女子の独立自営』(1911年)

自分を大事にしなさい、という励ましではない。自分の値打ちを決める権利を、親の側から自分の側へ移せと言っている。移した人だけが、断る理由を自分で持てる。

入口になる本

入口
みだれ髪
与謝野晶子/今野寿美 訳注(角川文庫、2017年6月、208ページ、400円)
『みだれ髪』は一首が三十一文字しかないのに、旧仮名で書かれているせいで、初見ではほとんど意味が取れません。この版は三百九十九首すべてに現代語訳と注が付いていて、208ページ、400円です。一首ずつ、訳を先に読んで原文に戻る読みかたができる。そのうち訳を見ないで読める首が増えていきます。この本は、最初からそれを想定して作られています。
まず読むなら巻頭の「臙脂紫」から。このページで引いた二首はどちらもここにあります。順に読む必要はなく、目についた一首だけで構いません
読み終えると百二十年前の日本語が、辞書を引かずに自分の感情として読めるようになる
向かないのは静かな歌を求めている人。この歌集は恋と体の歌が中心で、通読すると息切れします。一日に数首ずつ読む本です
本命
ジャーナリスト与謝野晶子
松村由利子(短歌研究社、2022年9月、332ページ、2500円)
与謝野晶子は「恋の歌人」として記憶されていますが、生涯に膨大な評論を新聞と雑誌に書いた人でもあります。この本は全11章で、その言論活動のほうを主題にしています。2022年の刊行で、第21回日本歌人クラブ評論賞を受けています。歌のほうから入った人が、次に評論へ渡るための橋として書かれた一冊です。
まず読むなら目次を見て、新聞と晶子の関係を扱った章から。彼女がどの媒体に何を書いたかが分かると、評論そのものが読みやすくなります
読み終えると「みだれ髪の人」という一行の紹介が、彼女の仕事の何割を落としているのかが分かる
向かないのは晶子本人の文章をそのまま読みたい人。これは彼女について書かれた本であって、評論集ではありません
本命
与謝野晶子評論集
与謝野晶子/鹿野政直・香内信子 編(岩波文庫、1985年8月、360ページ)
このページで引いた散文は二篇とも、この本に入っています。『ひらきぶみ』も『女子の独立自営』も、青空文庫がこの岩波文庫版を底本にしています。二十七篇を収めた360ページで、女子の独立、結婚、教育、社会と政治まで、彼女が書いた範囲がそのまま並びます。歌ではなく、考えたことを地の文で読みたいときの一冊です。
まず読むなら『ひらきぶみ』から。批判への返事という形をとっているので、何に対して何を言っているかが最初から分かります
読み終えると情に任せて歌った人という像が、実際の文章と合わないことが確かめられる
向かないのはいますぐ新刊で買いたい人。★この本は岩波書店の書誌ページで品切れと表示されています。図書館か古書で探すことになります
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