自分より先に、人の目に火が点る
「わたしたちがここにいるのは、法を破る者だからではありません。法を作る者になろうとして、ここにいるのです」
— 「1908年10月 ボウ・ストリート法廷での陳述」(『わたし自身の物語』(My Own Story)第2部第3章)We are here, not because we are law-breakers; we are here in our efforts to become law-makers.
イギリスの女性参政権運動の指導者です。出生証明書では1858年7月15日、マンチェスターのモス・サイド生まれ。ただし本人は一日前の7月14日——フランス革命記念日——に生まれたと信じ、そう名乗っていました。旧姓はグールデン。1879年に法廷弁護士のリチャード・パンクハーストと結婚します。夫は1870年の女性参政権法案を起草し、1882年に成立した既婚女性財産法の法案も書いた人でした。五人の子を育てながら救貧委員や学務委員を務め、その仕事で出会った女性たちの境遇から、法律を変えなければどうにもならないと考えるようになります。1903年10月、マンチェスターのネルソン街の自宅に女性たちを集め、女性社会政治同盟(WSPU)を作りました。会員を女性に限り、どの政党にも属さない、と決めています。標語は「行動を、言葉ではなく」。1905年、マンチェスターの自由貿易ホールでの自由党の集会で、娘クリスタベルとアニー・ケニーが「自由党が政権を取ったら、女性に投票権を与えますか」と質問して退場させられ、逮捕されます。このとき、当初用意した大きな旗が使えなくなり、当日の午後に急ごしらえで小さな旗を作り直しました。そこに書いた三語が「Votes for Women」です。世界に広がった標語は、計画が崩れた結果として生まれています。★ここから先は、読む人によって評価が割れる部分です。WSPUは窓ガラスの破壊、郵便ポストへの放火、無人の建物への放火まで手段を広げました。1912年10月のアルバート・ホール演説で、彼女は「わたしはこの集会を反乱へと煽動する」と述べています。同じ演説で「人命を危険にさらすことは、これまでも今後もWSPUの方針ではない。狙うのは財産だ」とも明言していますが、財産の破壊を公然と呼びかけたこと自体は事実です。彼女自身も繰り返し投獄され、ハンガーストライキを行いました。1913年、政府は衰弱した囚人をいったん釈放し、回復したら再収監する法律(通称「猫とねずみ法」)を作ります。彼女はこの法のもとで、何度も出たり入ったりを繰り返しました。第一次世界大戦が始まると、彼女は闘争を中止して戦争協力に回ります。この転換と、その後の強引な組織運営で、娘のシルヴィアとアデラを同盟から追い出しました。アデラとは生涯和解していません。1918年、人民代表法で30歳以上の女性に投票権が認められます。1926年には保守党に入り、1927年にホワイトチャペル・アンド・セント・ジョージズの保守党候補に選ばれました。1928年6月14日、ロンドンのハムステッドで死去。21歳以上のすべての女性に投票権を広げた平等選挙権法が成立したのは、その18日後の7月2日でした。★このページの引用は、1908年10月にボウ・ストリートの治安判事裁判所で彼女が話した言葉です。同年10月13日、WSPUは「サフラジェットと一緒に下院へ押しかけよう」と書いたビラを配り、その件で暴動教唆として起訴されました。陪審裁判を受けさせず警察裁判所で裁いたことに抗議したうえで、この一文で陳述を締めています。
「行動を、言葉ではなく。それが、わたしたちの変わらぬ標語になるはずだった」
Deeds, not words, was to be our permanent motto.
1903年10月、マンチェスターのネルソン街の自宅に女性たちを集め、女性社会政治同盟(WSPU)を作ったくだり。会員を女性に限り、どの政党にも属さず、この問題では行動以外に満足しない、と決めた直後に置かれた一文である。★「議論をやめろ」という意味ではない。同じ本の第1部第4章で、教育と宣伝はむしろこれまで以上に力を入れねばならない、とはっきり書いている。やめたのは、政治家の同情や遺憾の表明で満足することのほうだった。★この一文は、口述をもとに記者が整えた英文である(下の注記参照)。
「どれほど鋭い武器も、勇気をもって振るわれなければ、力を持たない」
The keenest weapon is powerless unless it is courageously wielded.
直前の一文とひと続きである。「世論は育てねばならない。だがわたしたちは、育った世論も、力強く使われなければ役に立たないと考える」。★ここでの「武器」は世論のことで、物理的な武器の話ではない。1906年の時点でイギリスには女性参政権に賛成する大きな世論がすでにあった、それが運動に何をもたらしたか——という問いのあとに置かれている。★賛成してくれる人が増えることと、事態が動くことを、別のことだと言っている。
「わたしたちは「淑女らしい」「みっともよい」といった世間並みの考えを、すべて投げ捨てた。そして、やり方を決めるときの試験問題をひとつだけにした——それは役に立つか?」
We threw away all our conventional notions of what was "ladylike" and "good form," and we applied to our methods the one test question, Will it help?
街頭に出はじめたころのくだり。救世軍のやり方を真似た、と本人が書いている。人通りのある場所を選び、椅子を一つ演壇にして、誰かが足を止めるまで鈴を鳴らした。★英語の good form は「行儀のよさ」「体裁」を指す当時の言い回し。★判定の基準を「品よく見えるか」から「人が集まるか」に架け替えた、という話である。何をしてもいい、とは言っていない。
「あなたはあなたのやり方で、闘いなさい」
Be militant each in your own way.
★この一文だけを切り離して読まないでほしい。続きはこうである。「議会へ行って、満足のいく返事があるまで帰らないという形で闘える人は、そうしなさい。……窓を割れる人は、割りなさい。財産という秘密の偶像をさらに攻撃できる人は、そうしなさい」。そして演説は「わたしはこの集会を反乱へと煽動する」で終わる。実際このあとWSPUは器物損壊を組織的な手段にした。★同じ演説で彼女は、人命を危険にさらすことは今後も方針にしない、狙うのは財産だ、とも明言している。★当サイトが取っているのは「一人ひとり違うやり方でよい」という部分である。手段の中身まで薦めているわけではない。
「その人たちは、運動が人気を得るまで待たなかった。女たちが反乱寸前まで奮い立つのが明らかになるまで、ためらってもいなかった」
These men did not wait until the movement became popular, nor did they hesitate until it was plain that women were roused to the point of revolt.
「その人たち」は、女性参政権がまだ笑い話だった時代にこの運動へ名前を貸した男たちを指す。夫のリチャード・パンクハーストもその一人だった。★彼らは人気を失い、金銭的にも政治的にも損をした、と本人が書いている。それでも揺らがなかった、と続く。★この本で彼女が「自分より先に始めていた人」について書いている、数少ない箇所である。