情・受・他・今
寄り添う灯台
動かないことで、誰かの目印になる
マルティン・ブーバー
1878年〜1965年(オーストリア/イスラエル) / 愛は、あいだにある
「私は汝によって私となる。私となりつつ、私は汝と語る。まことの生は、すべて出会いである」
— 『我と汝』第一部(1923年)根源語「われ−汝」を論じた箇所
Ich werde am Du; Ich werdend spreche ich Du. Alles wirkliche Leben ist Begegnung.
彼は人と人のあいだに、何も挟まなかった。挟まないことが、彼の仕事だった。
意匠:向かい合わせに置かれた二脚の椅子。そのあいだには、机も書物も何ひとつ置かれていない
あなたへ
あなたはたぶん、何かしてあげるより、ただそこに居るほうが得意だ。相談されても、すぐには答えを出さない。うなずいて、最後まで聞く。それで相手が勝手に落ち着いていくのを、何度も見てきたはずです。ただ、それを自分の手柄だとは思えない。何もしていないのだから、と。だから人が離れていったとき、自分の手元には何も残っていない気がする。たぶん、数えている場所が違います。あなたがしてきたのは「する」ことではなく、「居る」ことのほうでした。
この人はこう考えた
ブーバーは、人が世界に向かうときの言い方は二通りしかないと考えた人です。ひとつは「われ−それ」。相手を性質の束として眺め、使い、比べる言い方。もうひとつは「われ−汝」。相手を、いま目の前にいるその人として迎える言い方。前者は便利で、後者は何の役にも立ちません。それでも、生きているという手応えは後者の側にしかない、と彼は書きました。しかもそれは努力では掴めない。探しに行くと逃げていき、こちらが開いて待っているときに、向こうから来る。人に何もしてやれないと感じるとき、この人は技術を教えてはくれません。ただ、あなたがすでにしていたことに名前をつけてくれます。それは出会いだった、と。
こういうときは、この言葉
人とつながろうと頑張って、空回りしているとき
「汝は恵みによって私に出会う。探し求めることによっては、見いだされない」
Das Du begegnet mir von Gnaden – durch Suchen wird es nicht gefunden.
— 『我と汝』第一部(1923年)汝は経験されないと述べた箇所
掴みに行った手からは逃げる。開いて待つ手にだけ乗る。
気持ちが足りないのではないか、と自分を責めてしまうとき
「感情は人の中に住む。しかし人は、自分の愛の中に住む」
Gefühle wohnen im Menschen; aber der Mensch wohnt in seiner Liebe.
— 『我と汝』第一部(1923年)愛と感情を区別した箇所
感情は持ち物、愛は住まい。今日の気分は、住所を書き換えない。
過ぎたことと先のことばかり考えて、今がうすくなっているとき
「汝が現在のものとなることによってのみ、現在は生まれる」
Nur dadurch, daß das Du gegenwärtig wird, entsteht Gegenwart.
— 『我と汝』第一部(1923年)現在と過去を対比した箇所
今とは時計の話ではない。誰かと向き合った分だけ、今がある。
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入口
我と汝・対話
マルティン・ブーバー/植田 重雄 訳(岩波文庫 青655-1)
引用した『我と汝』の全文に加え、後年の講演録『対話』が併録されています。『対話』のほうが具体的な場面の話なので、こちらから読むと迷いません。
まず読むなら併録の『対話』から。そのあと『我と汝』第一部へ戻ると、抽象的な文が景色に変わります
読み終えると「何もしてやれなかった」と思っていた時間を、出会いとして数え直せるようになる
向かないのは手順や技法を求めている人。ブーバーは方法をひとつも書いていません
本命
我と汝
マルティン・ブーバー/野口 啓祐 訳(講談社学術文庫 2677)
『我と汝』だけを収めた一冊です。訳が新しく、日本語として読み下しやすいので、原著の筋をもう一度追い直したいときに向いています。
まず読むなら第一部の冒頭から順に。短い断章が積み上がる構成なので、1日1つで足ります
読み終えると「われ−それ」と「われ−汝」の切り替わりを、自分の一日の中で見分けられるようになる
向かないのは解説や入門を先に読みたい人。本文がそのまま始まります
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