哲学者図鑑
理・受・他・先
時を待つ記録者

今は書き留める。答えは後から来る

アンナ・コムネナの似顔絵

アンナ・コムネナ

1083年〜1150年代(東ローマ帝国) / 負けた側が、書き残す

「歴史の言葉は、時の流れに対するいちばん強い防壁になる。その止めようのない流れを、いくらかは押しとどめる」

— 『アレクシアス』序文第1章1節

ἀλλ’ ὅ γε λόγος ὁ τῆς ἱστορίας ἔρυμα καρτερώτατον γίνεται τῷ τοῦ χρόνου ῥεύματι καὶ ἵστησι τρόπον τινὰ τὴν ἀκάθεκτον τούτου ῥοήν

時の流れは止められない、と書き出した人である。その同じ手が、流れ口を押さえている。止まるとは思っていない。「いくらかは押しとどめる」と、彼女はそう書いた。
意匠:水時計を膝に載せ、水の落ちていく口を、指一本で押さえている

あなたへ

言いたいことがあるのに、言う場所のほうを取り上げられたことはありませんか。会議から外された、担当を替えられた、もう誰も聞きに来ない。抗議しても、負けた側の言い分として片づけられる。アンナ・コムネナは、それが三十年続いた人です。父の代の人間には一人も会えなかったと、本人が書いています。その三十年で彼女がしたのは、自分の言い分を通すことではありませんでした。誰が何をしたのかを、生き残った老人から集め、書き付けと突き合わせ、書き留めることでした。順番を入れ替えたのです。いま通ることと、後に残ることは、同じ一つの勝負ではない。

この人はこう考えた

アンナ・コムネナは1083年、コンスタンティノープル大宮殿の「紫の部屋」で生まれました。東ローマ皇帝アレクシオス1世と皇妃エイレーネーの長女です。文学、修辞、哲学、数学、医学を学び、アリストテレスの著作とプラトンの対話篇を読んだと自分で書いています。1118年に父が死ぬと、弟ヨハネス2世の治世で宮廷から遠ざけられ、母が建てた修道院に入りました。以後のことは本人の記述が残っています。三人の死者を悼みながら「隅にいて、書物と神にかかずらっている」、そして「三十年、父の代の人間に一人も会っていない」。その年月をかけて書き上げたのが、父の治世を全十五巻に収めた『アレクシアス』です。生き残った老兵や、飾り気のない書き付けを集め、互いに突き合わせて事実を決めていきました。結果として、第1回十字軍を東ローマ側から記録した、ほとんど唯一の同時代史料になっています。1150年代に亡くなりました。

こういうときは、この言葉

自分のやってきたことが、誰にも知られないまま消えていく気がするとき

「時は止めようもなく流れ、たえず動きながら、生まれたものをことごとくさらっていき、見えない底へ沈める」

Ῥέων ὁ χρόνος ἀκάθεκτα καὶ ἀεί τι κινούμενος παρασύρει καὶ παραφέρει πάντα τὰ ἐν γενέσει καὶ ἐς βυθὸν ἀφανείας καταποντοῖ

— 『アレクシアス』序文第1章1節

この直後に彼女は、沈むのは取るに足りないものだけではない、大きくて忘れがたいものも同じだ、と続ける。値打ちがあれば残る、とは考えていない。だから値打ちを主張する側ではなく、記録する側へ回った。

うまく書けない、うまく話せないから、やめておこうと思うとき

「これから語るのは、文章の腕を見せるためではない。これほどの事が、後の世に、証人のないまま残されないようにするためだ」

Ταύτας δὲ λέξουσα ἔρχομαι οὐχ ὡς ἐπίδειξίν τινα τῆς περὶ λόγους ποιουμένη ἀσκήσεως, ἀλλ’ ὡς ἂν μὴ πρᾶγμα τηλικοῦτον τοῖς ἔπειτα γενησομένοις καταλειφθείη ἀμάρτυρον

— 『アレクシアス』序文第2章1節

上手かどうかは、この人の基準に入っていない。証人がいるかいないか、だけを見ている。書けない日は、日付と、誰が何をしたかだけ書けばいい。

身内や自分の側を、つい庇ってしまいそうなとき

「父が誤っているのを見たなら、私は肉親の情を踏み越えて、真実のほうを取る。どちらも親しいのなら、真実を先にするのが最善だと、ある哲学者も言っている」

Ἥ γε καὶ ὅπη τὸν πατέρα σφαλλόμενον ἴδοιμι, ἄντικρυς καὶ παραβαίνω τὸν νόμον τὸν φυσικὸν καὶ τῆς ἀληθείας ἐξέχομαι, φίλον μὲν καὶ τοῦτον ἡγουμένη, φιλτέραν δὲ τὴν ἀλήθειαν ἔχουσα

— 『アレクシアス』第14巻7章3節

「ある哲学者」はアリストテレスを指すとされる。父を讃えるための本の中で、父を庇わないと先に宣言している。庇わないと断った人の賛辞だけが、後から読んで意味を持つ。

まわりの評価が、どうも当てにならないと感じるとき

「いちばん多く集まったのは、父から三代あとの御代だった。祖父への追従も嘘も、その人と一緒に流れ去っていたからだ。みな、裸の事実を、受け取ったとおりに話した」

κράτιστα ἐπὶ τοῦ μετὰ τὸν ἐμὸν πατέρα τρίτου τὰ τῆς βασιλείας σκῆπτρα διέποντος, ὅτε καὶ πᾶσα κολακεία καὶ ψεῦδος τῷ πάππῳ αὐτῷ συναπέρρευσε

— 『アレクシアス』第14巻7章5節

褒める理由が消えた時期を、彼女は待って聞き取りに使った。いま集まる評判は、その人ではなく席に向いている。席が動いてから同じ人に聞くと、違う話が出る。

悲しみで、手が止まってしまったとき

「では、目の涙を拭い、悲しみから自分を拾い直して、続きにかかろう」

ἀποψήσασα οὖν τὸ δάκρυον τῶν ὀμμάτων καὶ ἐμαυτὴν ἀναλεξαμένη τοῦ πάθους τῶν ἑξῆς ἕξομαι

— 『アレクシアス』序文第4章

泣き終わってから書く、とは言っていない。拭いて、続きにかかる、と言っている。悲しみが済むのを待っていたら、三十年はそのまま過ぎる。

入口になる本

入口
歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品
井上浩一(白水社、2020年7月、322ページ、3200円)
日本語で読めるアンナ・コムネナの評伝です。生涯と『アレクシアス』という作品の両方を、一冊で扱っています。東ローマ史の予備知識がない状態で『アレクシアス』本体に入ると、人名と地名で必ず止まります。この本を先に読むと、誰が誰の敵で、彼女がどの立場から書いているのかが分かったうえで本体に入れます。322ページ、3200円。
まず読むなら彼女の生涯を追う前半から。1118年に何が起きて、そのあと何が書けなくなったのかが分かると、『アレクシアス』の沈黙の場所が見えてきます
読み終えると「皇女が父を讃えた本」という一行の紹介が、この作品の何を落としているのかが分かる
向かないのは彼女自身の文章をそのまま読みたい人。これは彼女について書かれた本であって、『アレクシアス』の訳ではありません
本命
アレクシアス
アンナ・コムニニ/相野洋三 訳(悠書館、2019年12月、本文563ページ+訳注275ページ、8000円)
このページで引いた文は、すべてこの本の中にあります。全15巻の初の日本語全訳で、2019年に出ました。特徴は訳注の量で、本文563ページに対して訳注が275ページ付いています。十二世紀のコンスタンティノープルは、注が無いと固有名詞の壁で読み進められません。その壁をこの版はほぼ全部埋めています。
まず読むなら序文から。このページの引用と格言のうち三つは序文にあり、彼女が何のために書くのかを自分で説明しているのもここです
読み終えると第1回十字軍が、西ヨーロッパ側からではなく、受け入れた側からどう見えていたのかが読める
向かないのは気軽に持ち歩きたい人。本文と訳注で838ページ、8000円です。通読するより、序文と第14巻から拾い読みするほうが続きます
本命
ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち
中谷功治(中央公論新社、2020年6月、304ページ、940円)
アンナの本は、東ローマ帝国という国がどういう国だったのかを知らないと、背景が全部平らに見えてしまいます。この新書は帝国の千年を皇帝ごとにたどるもので、304ページ、940円です。彼女の父アレクシオス1世が立て直した帝国が、その前に何を失っていたのかが順に書かれています。
まず読むなら目次からコムネノス朝の章へ直行して構いません。通史として読むのは、興味が出てからで足ります
読み終えるとアンナが「われわれの帝国はもともと他の民族の女主人だ」と書くときの、その口ぶりの出どころが分かる
向かないのはアンナ・コムネナについて詳しく知りたい人。これは帝国の通史であって、彼女の扱いは全体のごく一部です
12の質問に答えると いまのあなたに近い哲学者がわかります 無料・登録不要・名前も連絡先も聞きません

ほかの哲学者

エピクテトス
自分の領域だけを守れ
老子
力まず、水のように
ハンナ・アーレント
立ち止まって、問え
ジャン=ジャック・ルソー
比べる心が、鎖になる
フランツ・カフカ
凍った海を砕く斧を
ヘルマン・ヘッセ
卵を破らねば、生まれない